航路の変化
東西冷戦。ソビエト連邦を盟主とする社会主義陣営(東側諸国)とアメリカが盟主の資本主義陣営(西側諸国)が対立していた時代。
当然、自分の違う陣営に属する、国家を飛行機で上空通過することも厳しく禁じられていた。具体的な例がシベリア上空通過禁止だろう。アジア諸国から欧州へ向かうには、もちろん今も昔もシベリア上空を通るのが最短ルートだ。しかし、これが不可能だった時代。当時の航空路がこれだ。
日本からは、主に二つの経路に分かれる。
一つは、北極圏経由。欧州行きもアメリカ行きもまず、ソ連領海の東を通りながら北上しアラスカ半島の都市である、アンカレジへ寄港。東西冷戦時に海外へよく行った方なら馴染み深い言葉だろう。ここで燃料を補給して、アメリカ各都市へはそのまま直行し、欧州へはアンカレジからまた北へ向かい北極圏を通過。するとまず最初に見えてくるのがスウェーデンを始めとする北欧でそこから、フランスやイタリア、イギリスとイベリア半島へ至る。北極圏の上空は氷点下50度近い。飛行機のエンジンは氷点下50度を下回ると、凍りつき始め、やがて運行不能になることもある。そのため、アメリカ連邦航空局は防具を飛行機に乗せることを義務付けている。この航空路は治安のいいアンカレジ空港を寄港する上、基本的に一箇所しか寄る必要が無かったが、高かったので若者などは次に紹介するアジア経由を重宝してた。
写真はアンカレジ空港
二つ目は、アジア経由。日本を出ると南へ向かい、フィリピンやシンガポール、タイやアラビア半島国家の空港を点々とし、ヨーロッパへ向かった。この航路は、それでも最短だった北極圏ルートよりはるかに距離が遠かったため、何度も寄港する必要があった。寄港地としては、クアラルンプール(マレーシア)やシンガポール、バンコク(タイ)、デリー(インド)、アラビア半島のドバイなどが上がる。乗り継ぎ便同様にもちろん安かったのだが、今と違い当時は政情不安の国が多く寄った空港で何が起こるか分からないというほどだったため、「本当に着くかわからない」という感じだったという。しかし、先ほど述べたように安かったため、若者や学生には人気だった。
マルタ会議で米ソ両首脳が、冷戦終結を宣言して、シベリア上空の航空路の開拓も始まった。文章がロシア語などで苦労も多かったが、1990年代に10000km以上飛行可能な旅客機が続々と開発されるとともに、ヨーロッパへの直行便も主流になってきた。かつては寄港地として栄えてた、アンカレジ空港。旅客便も数えるほどになってしまったが、貨物便にとっては今でも重要な経由地となってる。アジアに巨大な空港ができる中、乗り継ぎ便でヨーロッパへ向かうのも直行便と肩を並べるように人気がある。
(写真は全てWikipedia)
0コメント