東京メトロ・都営地下鉄 完全乗車への道 9月16日編2本目 押上駅→池袋駅
16日2本目の記事です。押上駅の半蔵門線方面(つまり田園都市線経由)の電車は、1,2番線の発車が多いせいか、駅員さんが3番線からの発車と呼び掛けてました。間違えてる方が大勢いました。(あ、私も間違えました。)乗車した電車は、東部からの直通では無かったので、半蔵門線からやってきてジーザスクロッシングで分岐線を渡り前もって渋谷方面のホームへ入線したのかと思います。
出発
押上→三越前
半蔵門線は、メトロ9路線の中で、銀座線に次いで距離が2番目に短くメトロと都営と全路接続する路線です。この路線が開業するようになったのは銀座線の慢性的な混雑に対応するため。銀座線は6両編成ですが、全線通して地下の浅いところを通っており拡張工事となるといろんな交通機関に支障をきたすなどして、バイパス路線の建設を決めました。それでできたのが、半蔵門線です。路線図を見れば両路線が並走してる区間が多いのがわかります。
三越前駅に到着です。ここは地下鉄で初めて企業名や団体名が命名された駅です。古くからあった百貨店である三越は営団の前身である東京地下鉄道へ、
「三越の前に駅を設けてほしい。ついては建設費は負担する。」
との、申し出あったといい、資金不足に悩んだ地下鉄道はデパート直結の駅を作れば、集客力が上がるとその話に載ったようです。予算は46万円余り。現在の勝ちに換算すると、20〜30億円になるそうだ。しかし、この投資で電車やバスの車内で「三越」の名前が連呼され、ガイドブックや、時刻表にも「三越」の名前が無料で掲載されるのだから、安いものだろう。今で言う「ネーミングライツ」の元祖となったのかもしれません。写真のように、三越方面の改札へは豪華な装飾があしらわれてます。
壁に貼られてる(?)三色の帯も三越に関連していて、豪華さや華やかさを連想させるそうです。
大手町駅へやってきました。ここからは、東西線で中野まで向かいます。東西線の大手町駅ではホームドアの設置が進んでいるそうですが、東西線は東京の地下鉄路線の中でもっともホームドアの設置が遅れてるかもしれません。東西線の車両は他の車両のドア幅が1mなのに対し、混雑対策として一気にたくさんの乗客を乗せ遅延を防ぐために1.3mとドアの幅が違います。すると、いつも使ってるホームドアは取り付けできませんから、新たに試験段階として2016年にようやく、九段下駅に取り付けが始まりました。
メトロの電光掲示板と、JRの駅名標が一枚に写る。
ここから、総武緩行線で西に向かい、荻窪まで行きます。次乗る路線は察しがつくと思います。
本当は、新宿あたりで降りる予定でしたが、Wi-Fiが早いのと、座れたのでまぁいいかと、終点の池袋まで乗ってしまいました。これをすると人はそれほどいないと思います。ちなみに新型車両に乗ることができました。
丸ノ内線について
丸ノ内線は戦後にJRの混雑を補う目的で山の手を地形に沿って建設された路線です。そのため、他の地下鉄路線や私鉄、JRから乗り換えて乗車する目的で建設されたと思います。「サインウェーブ」の愛称があり、これは開業当時運行していた300形が真っ赤な車体の白い帯に描かれたサインウェーブから。ロンドンのバスの車体とアメリカのたばこのデザインを参考にした説があります。
新設された駅
東高円寺駅と西新宿駅は、開業後に新設された駅です。
東高円寺駅と周辺にはかつての農林水産省の「蚕糸試験場」があり、開発が遅れてました。しかし、前もって営団がホームの用地を確保しておいてたため、駅の開業が容易になりました。一方の西新宿駅は、1991年に移転開庁となった東京都庁と開発の一環として開業した駅です。ここも東高円寺駅同様、前もって駅を追加できるよう用地が確保されてました。そもそも、西新宿駅が位置する新宿副都心は、新宿駅に近接したところにあった「淀橋浄水場」を移転してその跡地に開発を進めようと言うものでした。移転したのが、1965年であり、始めの開業となった高層ビルが1971年の京王プラザホテルでした。そう考えると、京王プラザホテルの歴史って長いですよね。しかし、移転後の構造は戦前の1932年からあり、荻窪線建設に際して需要の見込める、新宿駅近辺に駅を新設するのも当然かも知れなかったが、これで採点を取れなければと言う不安でひとまず様子見ということだったことに違
いありません。現在の西新宿駅は乗り換え路線が無い丸ノ内線の駅では最多の利用客(8万6000人)。コンコースやホームも広々としており、都庁を中心に広がる新宿副都心の玄関口にふさわしい様であると思います。300m先には地下連絡通路を通れば、大江戸線の都庁前駅がありますが、乗換駅には指定されてません。(指定すればいいのに…)車内から、駅の様子を見てましたが、後で追加されたと言う駅の感じではありません。
難工事の連発だった新宿→東京
下の写真は、少し頭をひねれば丸の内線が難工事を味わったことが理解できる写真です。丸の内線の四ツ谷駅は写真の通り、地上にありしかも、中央総武線を跨ぐような格好でホームがあるのです。四ツ谷駅は北に本郷台地、南に駿河大地の間に神田川と位置している要するに名前にあるように「谷」です。つまり、台地の地下をトンネルで走っていたものの、谷で地上に出たという格好。1日に1000本近く電車が通る、JRの上を無理して通過する必要はないかといい、台地の地下をさらに深く潜ったら、それでも神田川あるため、どっちにしろ苦戦を強いられるのです。一応高架駅ですが、ホームは、B1Fという格好になるそうで、JRのホームはB2Fだそうです。(その割には、ホームを出たら50mも過ぎず、地上に出てますがw)
赤坂見附から東銀座駅間は、ルート選定に苦労したとされ、結局日技神社の下をくぐり総理官邸の北側を通り国会議事堂駅に達することなったが、丘陵地を横断するため、極力駅を浅くしたいとなった結果、当時の営団地下鉄では最も急な35‰勾配が生じたそうです。
池袋に到着です。実は、池袋より北は有楽町線と副都心線の電車が運行を行ってますが、本来の計画では丸の内線の延伸区間が和光市までであったため、池袋駅の車止めより先も延伸が可能な計画になっているのです。
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